友の会イベント

「おしらせ」166号(2023年9月5日発行)掲載の世田谷文学館友の会の重要事項などをお知らせします。

友の会講演

『おくのほそ道』「むざんやな甲(かぶと)の下のきりぎりす」句を読む

国文学者 深沢 眞二氏

『おくのほそ道』の語り手は、加賀国の小松の多太(ただ)神社にて平家方の武者・斎藤実盛(さねもり)の甲(かぶと)を拝し、能の「実盛」を踏まえた「むざんやな甲の下のきりぎりす」の句を奉納します。現在コオロギと呼ぶ虫を、芭蕉当時は「きりぎりす」と言いました。さて、この句に「きりぎりす」が詠み込まれたのには、どのような意図がこめられていたのでしょうか。

「実盛」は、加賀国篠原の合戦で討ち死にした斎藤別当実盛の亡霊と遊行上人の対話から成る能で、実盛は白ひげの老武者の姿で現れて自らの最期を物語ります。実盛の首が木曽義仲の前に運ばれてきた時、義仲はすぐに実盛の首と分かるのですが、老齢のわりにひげの黒いことを不審がり、実盛をよく知る樋口の次郎に首実検させます。樋口は一目見て涙を流し「あな無慚(むざん)やな、斎藤別当にて候(そうらい)けるぞや」と嘆いて、六十を過ぎた実盛が日ごろ「敵にあなどられないためにひげを墨で黒く染めて若やいで討ち死にするつもりだ」と言っていたことを説明します。

「むざんやな」句のテーマが実盛追悼であることは確かですが、「きりぎりす」の役割についてこれまでの注釈書の意見は分かれています。(1)実盛の亡魂と見る説、(2)語り手と共に実盛の運命を嘆いているという説、(3)その哀切な声と実盛の最期の痛ましさを感覚的に取り合わせたという説、そのほかがあります。

いかがでしょう。みなさまどうお考えになりますか。今回の講演では、「きりぎりす」が俳諧でどのように詠まれてきたかをヒントに、答えを探りたいと思います。(講演者からのメッセージ)

講演者:深沢眞二氏(国文学者、東洋文庫研究員)
日時:10月8日(日)午後2時~4時(受付1時半より)
会場:世田谷文学館2階講義室
参加費:会員1,000円 会員以外1,500円
申込締切日:9月25日(月)必着
定員:40名(応募者多数の場合は抽選)


文学散歩

田端文士村で切磋琢磨した文人たち

~ 芥川龍之介、萩原朔太郎、室生犀星、小林秀雄ら ~

大正14年(1925)5月のある朝、下駄ばきの男が息せき切って坂道を駆け下りていた。案内も通さずに踏み込んだ室で開口一番「寝床で君の詩を読んで来たのだ」「いや失敬、僕はまだ寝巻をきているんだ」と言ったのは自裁2年前の芥川龍之介、迎えたのは、「郷土望景詩」の作者、萩原朔太郎である。後に田端文士村と称されるこの地域には多くの文人、文化人が集い、疾風怒濤の時代を過ごした。

村山槐多があと3年の命とは知る由もなく火だるまとなってキャンバスに絵の具をたたきつけていた。風呂帰りに洗い髪のままで女給募集の貼紙を目にした女性が、のちに佐多稲子という名で小説を書くようになるなどとは夢にも思わなかっただろう。小林秀雄が女優・長谷川泰子との同棲解消後に滞在した奈良の志賀直哉の下を離れ、田端の妹夫婦の家(田河水泡宅)に暫し羽を休めながら「様々なる意匠」の執筆に骨身を削っている。新婚で転入したばかりの中野重治は田端駅にて逮捕された。田端大龍寺に眠る正岡子規の墓に秋山真之が詣でるのは「坂の上の雲」のラストシーンである。

画家小杉放菴や陶芸家板谷波山が田端に住み始めてから、美大に近いこの地に美術家たちが、芥川が大正3年に居を構えてからは文人たちがそれぞれに蝟集し、切磋琢磨の雰囲気を醸し出した。彼らの活動を偲びながらこの地を歩いてみたい。

日時:11月9日(木)及び11月12日(日)(両日とも同じコース、小雨天決行)
集合:12時40分集合、JR京浜東北線・山手線「田端駅」北口(会旗あり)
参加費:1,000円(団体保険代含む)
案内:友の会スタッフ
募集人数:各日20名程度
申込締切:10月20日(月)必着、第一希望日第二希望日を必ず明記ください
(応募多数の場合は希望日調整あるいは抽選)


俳句鑑賞会

日時:2023年9月12日(火)、10月24日(火)、11月28日(火)
午前10時半~正午
会場:文学館2階講義室
参加費:200円
※秀句一句とご自作があれば一句お持ちください。


※イベント詳細は、「おしらせ」166号をご確認ください。

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